こんにちは!Sueです。
さて、今日紹介するのは、『<叱る依存>がとまらない』という本です。
人のマネジメントの仕事をしていたことがあります。
一番大切にしていたことは、「目標達成」はもちろんなんだけど、「言いづらい出来事があった時に、すぐに報告してもらえる環境づくり」です。
そのためには、心理的安全性が守られていなければならないし、余白みたいなものが必要だなと………気づいたのは、ずーっと後になってから。
それに気づく前は、(私が個人的に)理解できない言動を見た時に、気軽に注意や注文をしていた記憶があります。
ただ、その時に「はい、わかりました。」の返事に違和感を抱いていたことも事実です。
そのため、スタッフの言動を見て注意したくなったとしても、ぐっとこらえ、彼らがそうする背景を探るようにしていました。
また、「普通は、」とか「考えたら当然でしょ。」などの口癖を見直したり、トラブルがあった時に、「間違いに気をつけてください。(怒)」と言う前に、システムで根本的に解決する方法はないか、探るようにしていました。
どうしたら仕事がしやすい環境がつくれるか、私なりに頭を悩ませていました。
んで最近、感情的な人、特に、「怒り」を顕わにする人を見聞きすることが多いような気がしています。
私もあんなんだったのかな?とも思ったりします。
仕事を変え、立場が変わったので、見える景色や感じることが今までとは違うだけなのかもしれません。
それにしても、怒りを顕わにしないと、怒りを顕わにする人が思うクオリティーが保てないんだろうか?とか、「(この人に成長してほしいから)みんなでこの人のできていないところを指摘していこう!そうじゃないと成長しないから。」と言う人がいて、それがエスカレートしていって「(この人には)何を言っても良い。」ことになってしまってる現場を見たり…とか、色々思うことがあり、この本が目についたんだと思います。
怒りを顕わにする人の機嫌取りもまた存在して、そうなると、職場いじめみたいにもなるんですよね。恐ろしい。
怒りを顕わにする人がひとりいるだけで、緊張するところが仕事自体じゃなくて、人間関係というところが不思議だな、と。
個人的に馴れ合いは好きじゃないけど、そういう職場ってギスギスした雰囲気になるし、なによりも、目的がなんかちがくないか?と思うのは、私だけなんだろうか。
もうひとつ。
先日最寄り駅で、小学校1~2年生の子がダラダラ歩いていたせいで、乗りたかった電車に乗れなかったことに腹を立てていたお母さんが、ギャーギャー怒りながら、(加減はしているようだったけど)どついているのを見てびっくりしました。
身体が大きいとか小さいの問題ではないけれど、けっこう小さい子ですよ。
何か理由があって、足どりが重たかったのかなーと思いながら見てたけど、楽しく生活してほしいし、あの子が将来、誰かに対して、同じようなことをしないようになってほしいな…と密かに思いました。
やっぱりこういうのも、目撃するのもイヤだなと思いました。
●「叱る」とはなにか
●「叱る」に依存する
●<叱る依存>は社会の闇
●<叱る依存>におちいらないために
●『Session(邦題:セッション)』という映画を思い出した。
●『〈叱る依存〉がとまらない』は、この本です!
●この本も思い出したので、ここにリンクを貼っておきます。
「叱る」とはなにか
1. なぜ人は「叱る」のか?
「叱る」という行為は、叱る側が求める「あるべき姿」「してほしいこと」を実現するための手段です。
「他者を変えようとする手段」ですから、叱る側は「叱る」という行為を成立させなければなりません。
そうすると、権力のある人がない人に対して行うという前提が見えてきます。
その状況においての良し悪しや、望まれる行為なのか禁止される行為なのか、決める権限を持っている人が、その「正解」を実現するために「叱る」が生まれるわけです。
また、「叱る」という言葉でしか表現できないこの行為の本質は、受け手側に生じるなんからのネガティブな感情体験とセットになっていると考えることができます。
それから、「叱る」と「怒る」を区別しようとする人がいるけれど、それは、する側視点で見ているからですが、結局、される側にとっては苦痛だし、恐怖で、「自分のためを思って言ってくれた。」という認識はされないので、区別することには意味がありません。
「叱る」ことと「罰を与える」ことも、言葉か行為かの違いなので、人にネガティブな感情を与えて変えようとするという意味では、違いはありません。
それにしてもなぜ人はこんなに他人にネガティブな感情を与えたいのでしょうか?
それは、なぜか「苦しまないと人は変わらない(学ばない、成長しない)」という思い込みが多くの人の中に存在しているからなのでしょう。
2.「叱る」の科学 内側のメカニズムに目を向ける
脳には、恐怖や不安に反応する「扁桃体」、苦痛や嫌悪に反応する「島皮質」があります。
この部位は「ペインマトリクス(痛み関連脳領域)」と呼ばれる、痛みを感じる脳のネットワークにおいて、重要な働きをしていることで知られています。
神経科学者のルドゥー博士は「危険を察知して、危険な状況を脱して生き延びる確率を最も有効な方法を用いて、最大にするような反応を引き起こす」ための「防御システム」だと述べています。
ネガティブな感情を強く感じるとき、「防御システム」が活性化され、即座に無意識的に、「戦うか、逃げるか」の反応が置きます。
この「防御システム」は、人の「学びや成長」を支えるメカニズムではありません。
「防御システム」は、人の学びを支えるメカニズムとは真逆のシステムなのです。
では、「学び」をもたらすのは脳内のどんなメカニズムから成り立っているのか?
人に期待や意欲をもたらす「欲求」のメカニズムにあると考えられています。
ドーパミンニューロンを核とする神経ネットワークは「報酬系回路」と呼ばれていて、報酬そのものよりも報酬を期待することに強く反応するメカニズムです。
「欲しい!」「やりたい!」といった人の欲求を支えるメカニズムです。
「欲しい!」「やりたい!」と感じるものを見つけた時に、今までとは違う行動をとり、その結果、「報酬」を得られればその行動をもっとするようになり、期待を裏切られるとその行動をしなくなります。
とても強力な学習のメカニズムです。
また、報酬系回路の中には、全頭前夜の一部が含まれていて、ドーパミンの放出によって活性化することがわかっています。
ドーパミンは人の「欲求」と同時に、報酬を得るために自分自身を「制御」する回路も司っている、つまり、知性が活躍するメカニズムです。
「防御システム」とは、かなり異なる特徴を持っていることがわかります。
人によって、何が「報酬」になりうるのかをしっておくことは重要ですね。
さて、悪いことをした人に罰を与える「処罰感情の充足」というものも、人間にとって非常に魅力的な「報酬」のひとつです。
ルール違反を犯した相手に罰を与える体験をすると、報酬経路の主要部分のひとつが活性することが報告されています。
「苦痛」以上の、強い「快感」がなければ、自分には何のメリットもないどころか損をすることがわかってるのに罰を与えようとはしないでしょう。
社会の規範やルールを維持するための役割「処罰欲求」が人間には備わっているのではないかということが有力な仮説です。
「利他処罰」と呼ばれていて、社会のために誰かを処罰しようとりう発想にもとづく言葉です。
ですが、処罰行為は相手にネガティブな体験を与えることそのものが目的となっているような悪意ある処罰もまた、人は気持ちよくなったり、充足感を得たりすることがあります。
他人に苦痛を与えるという行為そのものが、人にとっての「社会的な報酬」のひとつになっているようです。
さて、ではなぜ「叱る」は多くの人に「効果がある」と誤解されているのでしょうか?
最大の要因は、ネガティブ感情への反応には即効性があるから。
叱られた側は、即座に無意識的に、「戦うか、逃げるか」状態になるわけだけど、「逃げる」、言われた行動をするか、「ごめんなさい。もうしません。」と言うことを選択する方が多いと思います。
そうなると叱る側の立場からすると、望んだ結果がすぐに得られたと感じる瞬間で、相手が学んだ、と思うから。
また、その場に居合わせる第三者にも、わかりやすい「効果」を見せることができ、きちんと対応していると納得してもらいやすくなるから。
ここに「叱る」が効果的な方法だと誤解される原因があるのです。
叱られた側は、「本来はどのように振る舞い、どうすればよかったのか」ではなく「叱られたときに、どうしたらよいのか」その場しのぎの対応方を学習するようになります。
根本的な解決にはなっていないので、叱る側にとっての、同じような不適切な行動を繰り返し、そのたびに「叱る」が延々と繰り返されることになり、「叱る」ことをやめられなくなる<叱る依存>と呼ぶべき状態におちいってしまうおそれがあります。
「叱る」に依存する
環境さえ整えば、<叱る依存>の落とし穴にはまってしまう可能性がどんな人でも十分にあります。
なぜ叱ることがやめられなくなってしまうのか、そのメカニズムについて考えていきます。
「叱る」という行動は、叱られた人の回避行動を引き出します。
「ごめんなさい。もしません。」「わかりました!すぐやります!」と言う行動をとることです。
叱る側からすると、「(叱った人が思う)正しい行動」「(叱った人が思う)あるべき姿」が即座に目の前に現れるので、強い充足感を得ることができます。
相手の行動が単なる回避行動でしかないことに気づくのは、とても難しいでしょう。
これは「自己効力感」とも呼ばれている感情で、叱る側が受け取るごほうびのひとつです。
また、「相手が悪い」と思っているかぎり、「もっと叱りたい」という欲求を感じるようになります。
だって、叱られる人に問題がありますから叱らなきゃいけない、と思うのです。
つまり、処罰感情の充足というごほうびが常についてくるのです。
そうなると、無意識のうちにどんどん叱る行動を増やしてしまいます。
それは、叱られることに慣れが起こる原因にもなります。
今までだたら即座に行っていた行動をなかなかしなくなります。
心理的側面だけでなく、生理反応のレベルでも起こっていると考えられます。
そうすると、叱ることで得られていたごほうびが得られず、より、強く激しく叱ることにつながります。
「やっぱり厳しくしからないといけないのだな」「甘やかすのはよくないな」などと思うことでしょう。
長期にわたり、慢性的に「強い苦痛」を体験した人は、心身ともにストレスにさらされ続けているので、場合によってはさまざまな心の病が発生する要因となることが指摘されています。
「叱らずにはいられない」は依存症のメカニズムによく似ています。
<叱る依存>への入り口は、叱る側のニーズにありそうです。
まず、うまくいかない現実に対するイライラ、低すぎる自己評価、他人への劣等感、慢性的な疲労や、体調不良など、「受け入れがたい現実」を抱えている状況があります。
そこへ「叱られる人」が目にとまります。
「正しくない、だめな状態」「ありえない行動」「おかしな姿」と映った場合、強い違和感とネガティブな感情がわきあがり、「叱る」のトリガーになります。
叱る人の判断は絶対ですから、その場において、何が正しいのかを決める権限はいつも叱る人の側にあるのです。
「なんとかして、正しい行動、あるべき姿に戻さなくては!」いけませんから。
「叱る」という行為は、そんな状態を即座に解決してくれ、大きな充足感、安堵感を得ることができます。
「正しくない、おかしな状態」がようやく「あるべき姿」に戻ったときには、報酬系回路が強く活性化し、ドーパミンが大量に放出され、もともと抱えていた苦痛をも一時的に忘れされてくれるのでしょう。
ですが、「叱る」には課題解決の力はありませんので、より強い避難の言葉、もしくは罰を与えなければならないという気持ちでいっぱいになります。
また、「叱る人」は、被害者は自分自身であり、「叱られる人」こそが加害者だと感じる現象が起こります。
叱る人は「状況の定義権」を持っている権力者ですから、自分は「正しいこと」を主張し、状況を「あるべき姿」にしようとする課題解決者なのだと勘違いするようになります。
問題の責任は、何度言っても同じことを繰り返して困らせる、目の前の叱られるヤツだ、と。
「叱ることをやめられなくなっている」という自覚がない中で、叱らない努力をしてみたとしても、叱ることはやめられず、行き詰まりの状況におちいってしまいます。
これが「怒り続けることを正当化」してしまおう、という感情を生み出します。
「相手のためにしていること」「これは必要なこと」という言い訳が出てきて、自分のやっていることは正しいと思うようになります。
苦しい言い訳なのですが。
それから、「私はそうやって強くなった、生存者バイアス」というものがあります。
「厳しく叱咤されてたからこそ、強くなれた。」とか「叱られて立派に育った人をたくさんしっている」「叱られたことの少ない人は、弱い人になるのでは?」というもの。
たしかに、そういう人もいるかもしれませんが、そのようになれなかった多くの人たちの存在も忘れてはいけません。
一部の成功者たちの声が社会に広く拡散されることはあっても、うまくいかなかった声は、拡散されることはほぼありません。
「叱られて、私は成功できた、強くなれた」というのは、うまくいかなかった多くの「犠牲」の上になりたっている可能性が高いということは覚えておきたいです。
生存者バイアスに限らず、叱り続けることを「正しいこと」「必要なこと」「当然のこと」にしようとしている人が数多く存在し、同じように考えている人がたくさんいると思えたら安心できます。
そいういうことを社会的影響力のある人が言ってくれれば、自分の正当性をより強く主張することができます。
その結果、もともとは個人レベルの問題だった<叱る依存>が、社会課題の発生にまで深くかかわっていくのです。
<叱る依存>は社会の闇
少年犯罪や薬物乱用、ゲーム依存に人工妊娠中絶のような、社会的課題をなんとかしたいと思った時の”解決策”が、いまだに、人の行動を規制して、罰を与えようとすること。
本質的な課題解決方法ではなく、処罰感情の充足のように思えますが、そのような発想になっています。
より効果的な課題解決策を作り出していく必要がありますが、日本は他の先進国に比べると、取り残されてしまっているとも言われています。
スポーツ指導という名の「暴行」や、目的を見失った学校の校則も、本人も自覚していない、無意識の欲求充足なのかもしれません。
学校という場での教師は、圧倒的権力者なので、「他者を思い通りにコントロールする快感」に依存してしまいやすい構造があります。
そうなると、子どもたちをより思い通りに支配するために、「あるべき姿」「禁止事項」「罰則」をこと細かに定めたくなります。
一度そうなると、ルールはどんどん複雑で詳細になり、効果や意義のない規則のための規則となっていくのです。
(ここを読んでいて思い出したのですが、少し前に働いていたお店で、店長が書いた「禁止事項」がどんどん壁のあちこち増えていく光景を目にした時、心配になりました。)
他人から強制された我慢や苦痛が問題だというこであって、「我慢する」ことや「苦痛を乗り越える」こと自体が無意味なこと、ではないです。
目的達成のための自発的は我慢と、他者から強要された我慢は、まったく別の体験だからです。
そのため、内発的な我慢と、強要された我慢は苦熱する必要があります。
他者から強要された我慢の先に待っているものは、「人を強くする」というものではなく、「学習性無力感」という状態です。
「諦め」や「無力感」が生まれます。
こうなってしまうと、見た目は「我慢できるようになった」けれど、実は、無力化されただけ。
それを私たちは常に念頭においておく必要があります。
傍観者の処罰感情を充足させるための厳罰化は避けなくてはらなず、<叱る依存>について私たち一人ひとりが考え、予防する発想が必要です。
<叱る依存>におちいらないために
個人の「実感」と「実際に起きていること」の間のズレが、「叱る」問題を難しくしています。
そのため、関連する認識をアップデートすることが必要です。
それには、まず、「(厳しくしないと)強くなれない」「(厳しくしないと)道を踏み外す」「(厳しくしないと)弱い子になる」といったような、苦痛神話から卒業する必要があります。
苦しみが成長につながるのはそれが他者から与えられたときではなく、主体的、自律的に苦しみを乗り越える時です。
周りの人間ができることは、本人の「やりたい」「欲しい」と感じる目標を見つけるサポートをし、それを成功させるための武器を与え、道筋を示すことです。
「厳しさ」とは、「妥協をしない」ことや、「要求水準が高い」ことで、「叱る」「苦しみを与える」ということではありません。
「妥協をしない」ことや、「要求水準が高い」ことは、相手にネガティブな感情を与えなくても可能です。
ではなぜ、ポジティブ感情では効果が薄いと感じるのか?
叱った時に、即効性があるように感じることとは反対で、即効性がないことが原因だと考えられます。
ポジティブ感情を用いたコミュニケーションは、その時その場で実感できるものでないので、「役に立っている」と感じづらいことにあります。
次に、誰かに罰を与えたい処罰欲求が、私たち一人ひとりの中にある欲求であると認識することです。
「報いを受けて当然」と感じる人を目の前にすると、自分とは何も関係なくても人はその人に「罰」を与えたくなります。
そしてそれを実行することで快を感じます。
この処罰欲求は、生来的な欲求と認識されていないので、「処罰感情の適切な満たし方」の議論や取り組みがされてこなかったのかもしれません。
本来個人的な欲求である処罰感情が、「相手のため」「社会のため」にすり替わるのは、処罰欲求が暴走するお決まりのパターンです。
誰かを罰したくなったら、処罰欲求を感じていることを自覚し、それが自分自身の正当化された欲求の暴走でないかを、常に自問自答する必要があります。
さて、「叱ってしまう自分」に悩んだとき、「叱る自分を叱る」のは間違いです。
反省しようとすることは、実際にはあまり役に立たないからです。
<叱る依存>の予防に必要なのは、禁止の発想ではなく「徐々に手放していく」発想です。
そもそも「叱る」が役に立つ状況や用途は2つ。
目の前の困った状況への「危機介入」か、特定の行動をしないようにしてもらう「抑止」の2つです。
これに当てはまらない場合は、叱っても意味はありません。
自分を傷つけてしまうか、他者に害を与えてしまう場合には当然なんらかの反応をしなければなりません。
ただし、根本的な問題解決の方法ではないので、できるかぎりすみやかに叱り終える必要があります。
自傷他害の状況がなくなったのなら、その時点で、苦痛を与えることをやめる必要があります。
叱るという行為は、叱る人に興奮や快感を与えますので、叱り続けてしまわないように自制する努力は必要です。
また、ものの見え方、捉え方は人それぞれなので、自分の「あるべき姿」は、本当に妥当なのか、今一度考えてみる必要があります。
仮に、自分基準で誰かを叱りたくなったら、まずは、一度深呼吸をして、少し遠いところから問題を眺めてみましょう。
それから叱りたくなった相手を見て、じっくり観察してみましょう。
その人には今の状況がどのように映っているだろう?どう認識されているんだろう?
どんなふうに見えて、聞こえて、どんな気持ちで、どんなことを考えているんだろう?
そうやって、叱りたくなる相手の主観的な世界も尊重しましょう。
相手が大人であれ、子どもであれ、親子であれ、どんな関係の人であれ。
そしてなによりもまず、ご自分を大切にしましょう。
『Session(セッション)』という映画を思い出した。
いろいろ衝撃的な映画でした。
★amazon prime video >>『Session(セッション)』(字幕)
『〈叱る依存〉がとまらない』は、この本です!
村中直人 (著)
この本も思い出したので、ここにリンクを貼っておきます。
かなり前に読んで、んーーーと考えさせられた本。
森 達也 (著)